
◆最近の投稿から◆
新型コロナウイルス体験記
「みどり会9月例会に参加して」
車椅子で介護タクシーに依頼し、施設から参加できた。懐かしい皆さんに会えた。5年ぶりかな?じんかれん理事をしてくださっている定方和子さんから「じんかれんホームページに投稿してもいいですよ」との朗報も得た。脳出血後、右手足がマヒしている。体験を文にし左手でガラ携に打ち込むことは何とかできる。さっそく投稿させていただきます。
「高齢身体障害者としてコロナを体験して」
ついにコロナに感染してしまった。8月11日の夕方だった。2年半以上前からコロナを周りに見ながら、すり抜けてきた。ワクチンも打った。何とか感染しないではきた。コロナのウィルスはある。感染するかしないかは免疫力次第、免疫力低下の条件が揃ってしまった。
治癒までの過程もコロナ対策だけでなかった。高齢身体障害のこと、高齢者施設の隔離生活の問題、具体的にはベッドだけの個室、そこで12日間、寝食そして椅子に腰掛け、ナースコールで介助を呼び完全防御服を身につけた人に椅子とポータブルトイレを差し替えてもらうのだ。つかまり立ちができなければ、抱えてもらうか、寝たきりでオムツしかない。
12日の監禁生活は長かった。当然、発熱や咽、胸の痛み声がわずかしか出ず食欲もなかった。ともかく今日、特に何か問題がなければ監禁生活は終われると思う。トイレに行ける。シャワーを浴びれる。フロアーで人と話ができるはずだ。
「悪夢の中」
コロナから解放された。治ったというより夢の中にいた感じがする。たかがコロナと人は言うだろうが高齢者施設の中、身体障害者の私、他人にうつしてはならない。ベッドと車椅子、ポータブルトイレだけの生活だった。声は出し難い、喉は痛く、味や臭いには過敏になり気持ちの悪さ、頭はぼんやりとしていた。
終わってみれば、悪夢の中にいた感じがする。熱中症のはじめと勘違いする人もいるらしい。もちろん、それで終わる人もいるだろう。ともかく、何だか怠い、から始まることが多いようだ。
「ライフライン」
コロナ、その後。監禁生活が解ける。紙食器が普通になった。職員が防御服を着ていない。PCR陰性で検査の時の鼻もさほど痛くなかった。罹患した時の鼻は既に腫れていた。コロナの薬が何か解らないが罹患確認が早ければ投薬も早まり状態が違っていたかもしれない。
洗面台で水道が使える。水洗トイレが使える。それが如何に清潔で便利なものか思い知らされた。昭和30年、そうでなかった時代を私たちは体験している。 今のライフラインは、大事に維持していかなければならない。
(みどり会 秋野文子)

雑感:『黒部の太陽』を視聴して』
先日NHKBSで三船敏郎、石原裕次郎、他昭和の名優が総出演した3時間15分ドラマ『黒部の太陽』を視聴しました。
戦後、関西の電力供給不足が深刻で、停電が社会問題になっていた時代、当時は原子力発電も主流ではなく、関電が黒部川第四発電所で水力発電を起こすために、危険な秘境の地で過酷な工事が行われたトンネル工事を受注した工事会社の内の一社熊谷組下請けの話です。
今から60年前、現代ほど科学技術も進んでいない時代に、日本の秘境に、巨大ダムを建設するためのトンネルを、人知を尽くして完成させた壮大なスペクタルドラマでした。
富山県を流れる黒部川、3千メートル級の山々が連なる北アルプスを水源とし、日本海まで一気に流れ下るこの河川は、水量が豊富なうえに急峻であることから、水力発電に極めて適した条件を備えていました。
殉職者171人、7年かかったこの工事、完成後関西の電力の50%が黒四から送電されていたらしい。
黒部ダム着工からの苦難の道。ここまでの多大な犠牲を払われて完成したのだという事実に打ちのめされる。
「世紀の大事業」として日本の建設史に残る黒部川第四発電所建設工事。岩盤の中で岩が細かく砕け、地下水を大量に溜め込んだ軟弱な地層である破砕帯に遭遇。
不可能と言われた破砕帯の突破は、どんな困難にも果敢に立ち向かう熊谷組スピリッツとして、工事から60年を経たいまも私たちに受け継がれています。
破砕帯突破の話がメインでしたが、人間の能力のすばらしさと共に、親子の断絶、娘の死など人間の弱さを描いたドラマは見ごたえのあるものでした。
ドラマの中で、経営者から現場監督、労務者まで全ての関係者が、ダムの完成を夢と心の支えとして従事したことに感涙しました。どんなことでもやろうと思って努力すれば、必ず実現できる。
『成せばなる成さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなり』が自分の心の支えとなっています。
《心の支えとは》ネットより
目標に向かって頑張りたいとき・人間関係が上手くいかないとき・心身共に不調のときなど、誰もが心の支えがほしくなる瞬間があります。
誰にでも落ち込むことや悩むことがあり、そんなときは心の支えを必要とするものです。
心の支えがあるだけで、前向きな気持ちになることができ、生きる活力も湧くため、たとえ辛いことがあっても乗り越えていけるでしょう。
心の支えになるための心得として重要なことは、相手が話してくれるのを待つことです。
どんなに話を聞いてあげたいと思ったとしても、自分のペースで色々質問をして、回答を迫ってしまうと、相手は不快感を感じ、心を閉ざす可能性があります。
心の支えになるためには、相手が話したいタイミングに合わせて親身に聴いてあげることが、信頼につながるのです。共感や思いやりの言葉を伝えることも、人の心の支えになるためには大切なポイントです。
勇気を出して悩みを打ち明けても、否定されればさらに傷つき、心の距離は離れていくばかりです。
悩みや考えに共感し、思いやりの言葉を伝えることで、相手の気持ちに寄り添うことができます。
そうなれば頼りになる存在として、相手の心の支えになれるはずです。
心の支えになるものは人によって異なり、何が支えになるかは、身近なあらゆるものに可能性があります。心の支えになるものとして、家族・友人・ペット・音楽・有名人・漫画・アニメ・本・思い出 などが挙げられます。
(K・M)

2πr 自由記述 アラカルト1, 2
アラカルト1 発症(統合失調症)してからの息子娘達をあなた達は『褒めた事があるのか?』
甚だ個人的な事で恐縮だが私はこの八月で八十になった。
昭和は第二次世界大戦もあり当時の男子の平均寿命は確か?六十に届かなかつた筈だ。
それからすると八十は大したものだが、周囲を見渡すと八十は当たり前、九十とて珍しくなく希には百に遭遇するご時世だ。
ちょっと横道に逸れたが、この私でも年甲斐もなく未だに『褒められると嬉しい!』。
「褒め殺し」 「褒め倒し」と言う言葉もあるが『褒めて育てる』の方が真っ当だと思う。
そこでこの「魔法のツール」を病(統合失調症)に悩む息子に使えないものか?と考えた。
その前に現状把握(確認)をしておきたい。
貴方(両親→特にオヤジ)は病に罹ってからの息子娘を褒めた事(経験)があるか?
私の地獄耳には異口同音に『無い』『無い』『無い』の大合唱が鳴り響く・・・
何をやっても、何をやらしても、ダメ!・NG!・ダメ!の所業には叱咤しか無く褒める機会は皆無だった。
でもこれは(親として)反省しなければならない事だ。
息子娘達のスローモで的を得ない行動は私達を困らせるつもりなど全く無く、ましてや悪意はさらさらない。
だったら私達が歩寄ろう。
目を見開らき、心を大きく開き。
私は何十年か振りにこんな事を褒めて見た。
・お茶碗の洗い方良いね
・食べ物の好き嫌いが無いな
・部屋のゴミ出しご苦労さん
探せば色々と有るものです。
(Y.T)
アラカルト2 (ちょっと厄介な息子だが)可愛いかった幼少期に『アルバムでワープする!』
自分勝手で人(私や妻)の言うことは聞かない。聞こうとしない。朝は起きない。自分から話し掛けてこない。問いかけても返事はしない。仕事(作業所やデイケアーなど)には行かない。何を考えているのか分からない。『ないないづくし』 の四七歳になる息子・・・
薬の飲み忘れが続いた時などは機嫌を損ねて、私の首を絞めにかかる息子・・・
友からの電話に出ない息子・・・
自分の息子と言えどもこの様な息子に癖々する事はあっても好感を持ち、打ち解けたりする事はなかなか難しい。
でもそれではいけない! 私は親なんだからと無い知恵を絞り・・・
そして思いを馳せたのが幼少期の息子の面影だった!
初めての子だった。可愛くない筈が無かろう! ない。一挙一動に食い入った。
しかし齢八十の頭脳はそれらを鮮明に蘇らす事は至難の業だった。端的に言えば不可能と言うこと・・
さ~て、困った! さ~て、どうする?
窮すれば通ず強い味方が降臨! 数週間前に妻に尻を叩かれながら仕方なく挑んだ押入れの片づけ!
そこには表紙がボロボロに痛んだ古いアルバムが幾つか・・・
その各ページに幼い元気な息子の姿が!可愛い息子の面影が!
庭のビニールプールの縁に腰掛け「そのままドブン」、棒のアイスを落として「呆然とする姿!」、 「犬に顔を舐められ・・」、「ポテトチップを床に撒いて・・・」etc
その絵(写真)毎に遠い日の音声も再生された。その大部分は泣き声だが中には『おとうちん(おとうちやん)』、『ぶんじ(じぶん)』etc
これを見てたら、聞いてたら・・・ 今はどんなに手が掛かり困った息子でも愛おしさが渦巻く・・・
親だね~
(Y.T)

2πr 自由記述 エッセイ1, 2
エッセイ1 オヤジが変われば息子(娘)も変わる!
なかなかそれに気づかず無駄な歳月が流れた。
多くの男子は因果な動物だ!会社、企業、団体、協会等々の型枠(檻?)の中で、『仕事』と言うエサを貪り続けて気が付けば定年! 後に空しさだけが残る。そしてもう一つ、数十年間後生大事にしてきた『呪文!』、『為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり』が鮮明に残る。(これが後々大問題になるのだが・・)
オヤジはそれを引っ提げて病(統合失調症等の疾患者)の息子(娘)と対峙する。この時点で前途多難が容易に想像出来る。
オヤジは「なんでこんな事が出来ないんだよ」「やる気があるのかよ?」「・・・・」
息子(娘)は、「出来ないものは出来ない」「オヤジは分かってくれない」「・・・・」
結果、二人の間の空気は淀み、気まずい雰囲気が漂う。一度この空気が生まれるとなかなか元に戻らない。戻らないどころか険悪さは増す。
オヤジは「息子(娘)はやる気がない」と、息子(娘)は「出来ないんだから仕方ない」「出来たらやってるよ」と、そしてお互いの距離はさらに広がる。
そんな堂々巡りの中でオヤジは考えた。世の中のセオリーを「出来るものがやる」「強い者が弱い者を助ける」「・・・・」
オヤジはそんな気持ちで息子(娘)と接した。最初、息子達は「オヤジは気でも狂ったんじゃないの?」と戸惑ったが、次第に心を開いていく。
そしてオヤジは新しく呪文を編み出した。
「成るものは成る、成らないものは、成らない」と・・・
オヤジは気づいた。『人を変えるより自分を変えた方が早い』と
(Y.T)
エッセイ2 オヤジとオフクロ、オヤジはもつと貢献を・・・
日本での女性の社会的地位が世界の水準を遥かに下回っていることが取り沙汰されている昨今だが、こと精神科病院の家族会に限っては、それは当たらない。
私は、これまでに片手に余る精神科病院の家族会を目にして来たが、そのどれもが『女(母親)尊男(父親)卑』だった。
どの会の出席者も大半が母親で、父親の姿は皆無に等しく、全くいない会もあった。
何故だろうか?
「父親は忙しいから」と言う人もいる。確かに現役の時はそうかも知れないが、定年を過ぎた父親は、そんなに忙しいとは思えない。
だったら何故? 以下は私の推論だが「これまで母親に任せっきり(頼りっきり)だった習慣」が尾を引いているのではないかと思う。そしてもう一つ、子供と親の関係だ。子供にとって父親、母親は共に「親」だが、その比重は同じではない、圧倒的に母親の比重が大きい。
もっと言うなら家の中で父親は飾り物、母親は身近な人なのだ。そしてそれが、統合失調症の息子、娘達となると、極端に言って、父親は「話を聞いてくれない」「話が通じない」『敵!』なのだ。
それに比べて母親は「話を聞いてくれる」「良き理解者」で『味方!』である。その為、子供(息子、娘)達は、父親を避けて, 母親に寄り添う。
確かに、10月10日身ごもり、その後、何年間も育児に関わった母親と、子供の誕生に際し僅かな材料を搬入した父親では仕方ない事だが。世の中には『製造物責任法』と言うのがあり、製造工程の過多に関わらず、責任が課せられている。
(Y.T)
読後の感想
このエッセイは “共感” の気持ちがふつふつと湧いてきませんか? 私たち家族の心情を見事に代弁されていると思います。
(H.S)

『この国の不寛容の果てに』 相模原事件と私たちの時代 雨宮処凛編著
作家・活動家の雨宮処凛さんが相模原事件について、
自分自身の「内なる植松」と向き合うために、
6人と対話してできた本である。
ずっと「雨宮処凛」って何者?と思ってきた。
刺激的な題名の著作やそのロリータ風の服装で遠い存在だと思い込んでいた。
でも、この本は是非皆さんにも読んで欲しいと思った。
偏見に囚われていた自分に気づかされた。
相模原事件が起こった時、何とも嫌な感じがした。
精神科受診歴のある若い男性が起こした事件だったからだ。
精神疾患のある息子も「これでまた、精神障害者は危ないと思われる」。
被害者よりも加害者にどうしても気持ちが行ってしまう。
当時の報道やその後の流れを見ると、
特別な人間が誤った思想で起こした特異な事件と済まされそうな気もする。
6人との対話は、それぞれの立場からこの事件を通して現在の日本の社会を映し出していく。
社会が生んでしまった事件だと思わされる。
なかでも森川すいめいさんと向谷地生良さんの話が興味深かった。
すいめいさんの対談を読んで「オープンダイアローグ」のことが理解できた。
分厚い本を読んでもなかなか心に入ってこなかったことが腑に落ちた。
決して自信を持った話し方ではない森川さんですが、説得力がある。
北欧でのエピソードも面白く読んだ。
同じ苦しい状況でも、我慢して頑張ってしまうのが日本、
みんなで話し合って工夫するのが北欧。
自分を犠牲にして耐えるというのは一番短絡的で安易な対応だという。
今の世代のうちに乗り越える方法を考えるのが次世代へと繋がって行く方法だと。
家族会の活動も意味があると自信を持とうと思う。
雨宮さんに「ラスボス」と言われる向谷地さんの話はとても面白い。
べてるは「今日も、明日も、あさってもずっと問題だらけ、それで順調」。
生きることの不確かさ、曖昧さ、苦労を大切にする。
どうしても成果を出すことに囚われてしまう自分に気づかされる。
たくさんの人を傷つけてしまった彼もべてるに出会っていれば、
「俺は寂しいんだ」って言えたかもしれない。
そうすれば障害者を蔑視することなどなかっただろう。
とても重いテーマだったが、読後は心が温かくなる。
日本もこのような人たちが播いた種が育って、
みんなが尊重されて生きていける日がきっと来る。
そんな楽観的な気持ちになれた。
私も種を播く人になりたい。
(Julyon)

生きるとは、自分の物語をつくること
コロナ禍のおかげで良かったこともある。
行事や会議が中止になり、時間ができた。
家事に使う時間は変わらないが、ゆっくり新聞を読み、本が読める。
ある家族会のサイトで取り上げられていた本を読んでみた。
「生きるとは自分の物語をつくること」。
臨床心理学者河合隼雄と作家小川洋子の対話集である。
小川洋子さんの「博士の愛した数式」も取り上げられていて、興味深く読んだ。
心に響く文章がたくさんあった。
☆障害のある方と親しくなると、障害のことを忘れる。
妙な心遣いはなくなってしまう。
☆カウンセリングというのは、解決方法を見つけるのは患者さんの方。
私はただいるだけ。
黙ったままちゃんといられたら、カウンセリングは1時間で終わります。
心がそこにいれば、いくらでも黙っていてもいい。
私は「物語」ということをとても大事にしています。
来られた人が自分の物語を発見し、自分の「物語」を生きて行けるような
「場」を提供している、という気持ちがものすごく強い。
☆やさしさの根本は死ぬ自覚だと。
やっぱりお互い死んでゆくことが、分かっていたら、大分違います。
私が一番印象に残ったのは、文化財を修繕する方の話。
布を修繕する時、新しい布が古い布より強いと却って傷つけることになる。
それに関して、河合隼雄さんが「だいたい人を助けに行く人は強い人が多いんです。
助けられる方はたまったもんじゃないんです」
朝ドラ「カーネーション」で主人公の幼なじみが戦場での過酷な体験から心身ともに崩れる。
見舞いに来た主人公に、彼の母が「あんたの強さはあの子には毒なんや」という場面が蘇った。
こころを寄せて、ただそこにいるだけ。それが難しい。
私は息子や、家族会に相談にみえた方にちゃんと寄り添えているのだろうか。
最近、本を読んでも映像を見ても家族会に結びつけてしまう。
これはどうなんだろう。一種のバイアスがかかっているのかも。
いろいろ考えてしまった。
(Julyon)

訪問看護とともに2カ月を過ごして
僕は精神障害者当事者だが、困ったことがある。1年ほど前、新しく変わった主治医の先生と診察室でやり合いになってしまって以降、診察に行かれなくなってしまったのだ。仕方なくその後は母に代理で受診してもらっているのだが、母にいくら詳細に「診察メモ」を手渡しても、限られた診察時間の中では先生に伝えられることはごくわずかで、先生とのコミュニケーションが極端に希薄になっていくのが感じられた。
それに加え、特に今年に入ってからは、僕の体調や感情の起伏が激しくなり、瞬間湯沸かし器のようにイラつきが爆発して家族に罵声を浴びせかけたり、以前と同様に1週間に2日ほど寝込んでしまったりし、どうしようもなく行き詰まりを感じていた。
そんな僕に困り果てた両親は、町の役場の福祉課の方に相談に行った。すると担当の方は、「訪問看護を受けられるといいですよ」と提案してくれた。この話を母を通じて主治医の先生に伝えると、先生はクリニックの看護師さんを訪看に派遣してくれると、喜んで答えてくれたそうである。
それを聞いた僕は、はじめあまり乗り気ではなかった。今までも過去にデイケアや作業所などに通ったことはあるが、いずれも周りの人たちとの違和感で疲れてしまい、辞めてしまった。僕にはもう、家族以外の人とスムーズに交わることなどできず、不快感を我慢するか、あるいは諍いになって退散するか、そのどちらかしかないと思っていた。
そんな中で、僕の訪問看護がともかく始まることになった。事前に分かっていたのは、若い女性看護師が2人交代で、毎週金曜日にクリニックから訪問して来るということだけだった。どんな人が来るのかはおよそ見当がつかない。上手く喋れるだろうか? 例によってケンカになるのではないだろうか? バカにされるのではないだろうか?
4月の初めにはじめて現われた女性看護師さんは、明るくてハキハキしており、僕とはおよそ逆の性格だったが、話し下手な僕の言葉ひとつひとつに丁寧に耳を傾けてくれ、趣味のコーヒーや物理の話、家族とのトラブル、主治医の先生とのいざこざ、過去に味わったトラウマ、いま困っていること、等々、まるで乾いたスポンジが水を吸い取るように、僕の話すことすべてを、文字通り吸い取ってくれているように僕には感じられた。
これは、今まで僕が病気になって以来経験してきた不快な人間関係とは何かが違う。こんなにも、この精神病患者の僕に親身になってくれる看護師さんがいるのか。
次の週に来てくれたもう1人の看護師さんも、また別の視点から僕の話に聞き入ってくれた。本当に、これがよく言う「目から鱗」という経験なのか。
その後も、看護師さんたちは毎週訪看に訪れてくれている。僕は自分の体調の悪い波が重なることが心配だが、この2カ月、1度しか休んだことはない。
いまは、リスパダールの量を調整するため、看護師さんたちに主治医の先生とのパイプ役になってもらい、先生と直接顔を合わせずに薬を変えるという新しい試みが進行中だ。
まだまだ訪看は始まったばかりだが、まずは幸先の良いスタートが切れたように思っている。
(ももすけ)

アケビの花を知っていますか?
自粛のおかげで、会合が次々とキャンセルになり、時間ができた。
家の中にいるのがもったいないほどの晴れの日、
久々に草ぬきのため、家の北側に回った。
草ぬきは、私には最良のコーピングである。
裏の駐車場との境のフェンスにアケビが絡まっている。
一人暮らしの息子が就職活動ができず、家に戻って来た時に、
庭で見つけた小さなアケビを移植したものだ。
それから十数年も経った。
相変わらず、家にいる息子である。
アケビの方も十年近く、実がなることなく、蔓が伸びるだけ。
ある年は黒々したガの幼虫に葉が全部食べられたことがあった。
息子が断薬後に大爆発を起こしたときは、見事に刈り込まれた。
それでも毎年幹は太くなり、どんどん蔓を伸ばしていった。
そして、数年前やっと花が数輪ついた。
生い茂った葉の影で小さな花がイヤリングみたいに揺れていた。
息子は自家受粉(雌雄同株で異花)に励んだが、実はならずに終わった。
翌年、今度は小さな実が数個できたが、実らない前に落ちてしまった。
「これはもう実は期待できないね」と二人で話していたら、
昨年食べられる小さい実がたくさんなったのである。
20個までは数えたけど、そのうち食べるのにも飽きた。
人間は、わがままだ。
そして今年はさらに紫色の可愛い、芳香のする花がいっぱい咲いた。
昨年末に海外赴任から戻った夫はアケビの花を見たことが無く、
もちろん実も食べたことが無いのだそうだ。
いっぱいの花にびっくりしていた。
今年の秋は豊作のアケビを喜んで食べてくれる人がいる。
幸せなことである。
どこからか、種を運んでくれた鳥に感謝である。
皮も食べられると聞き、一度試したが苦くて食べられなかった。
参考まで。
(Julyon)

映画「星に語りて ~Starry Sky~」
2時間があっという間だった。
東日本大震災の実話に基づいた映画である。
勝手な支援の映画にならないように、脚本の準備に時間がかかったそうである。
久しぶりに映画を見て泣いた。
避難所に「障害者がいない」ことに気付いた支援者が被災した障害者を
自らの手で探し、支援する。その過程で様々な困難が立ちふさがる。
支援者は個人情報保護法で障害者の情報が開示できない不合理に対し、
条文を調べ、特例があることに気づき、障害者の情報を現場に届ける。
障害者も支援を受けるばかりではなく、自分の役割を果たそうとする。
それにこたえようとする行政も描かれている。
地域を再構築するための会合に障害の当事者が招かれて意見を述べる。
福祉のあるべき姿である。
被災地の悲惨な姿が出てくるが、その中の希望も描かれている。
この教訓が今後の災害時に活かされますように。
松本監督も上演後話をしてくださった。
この仕事に係るまで、福祉や障害に全く無知だった自分の意識が変わった。
今後映画を撮る時は普通の生活の場に障害者がいる風景を撮りたいと言ってくれた。
非障害者の人達に見てほしい。
障害者は当たり前に、あなたのそばで生活しているのです。
残念ながら精神障害者の支援者が
「避難所から出て行けと言われたり、薬が手に入らず苦労したそうだ」
と話す場面はあるが、映画に精神当事者の姿は描かれていない。
「心の不安を除く」というのは災害時にはさらに難しいと思う。 明日起きるかもしれない災害には普段の準備が大事、
まずは自助と言われても、どうしたらいいんだろう。
(Julyon)

七転八倒の日々
僕は精神障害者当事者である。そうは言っても、普段は結構しあわ~せに暮らしている。あの、1週間~1週間半ごとに襲って来る、地獄のような“発作”のない平穏な間は。
地獄のような“発作”――それは、まさに地獄絵のようだとしか表現のしようがない。
まず、自分の普段の生活の中で唯一つながりのある家族(両親と妹)が、どういうわけか3人揃って鬼のような“敵”に回ってしまう。一旦こうなると、僕がどんなに普通に話そうとしても、僕の言葉には知らず知らずのうちに棘が混じるようで、3人はすぐに怪訝な表情をする。そして、ムシャクシャした僕は爆発する。
僕の怒りの爆発は、大抵は3人に大声で罵声を浴びせたりする程度なのだが、つい先日は、向かって来た妹の顔にげんこつをお見舞いしてしまった。もともと身体の弱い母は、そんな騒ぎの中で呼吸困難に陥り、腰が立たなくなって倒れ込んでしまう。76歳の父は、狼狽しながらも、あくまでも僕のことを力でねじ伏せようと弱った体力を僕にぶつけようとする。半狂乱になった僕は、我を忘れて暴れまくる。
そんなとき、自分はいっそのこと死んでいなくなってしまったほうがいいのかなと思う。生と死の境が、エスカレーターの乗り口のようにスムーズに続いている気がして、生から一歩踏み出すだけで、そのまま死の世界に行けそうな気がするのだ。別に、悩んだり落ち込んだりしているわけではない。踏み出すのはとてもカンタンなことのように思えてくるのだ。
しかし実際のところ、自殺未遂に至ったことはない。それだけ自分はシリアスではないということか。著名人が、新学期に学校に通うことをためらっている子どもたちに向けて、「死ぬことだけはするな」とメッセージを送っている、と先日新聞で読んだが、僕はそのように死ぬか生きるかの瀬戸際にいる小中高生に比べれば、ずいぶんラクなのかもしれない。
「ラク」? そんな苦しみはあるのか? では、僕や家族のこの地獄絵は何なのか。
ここ3日間続いていた“地獄の波”が今日は去り、再び平穏が戻って来た。平穏に戻ると、地獄の日々の記憶がまるで嘘のように消え去ってしまい、何もなかったかのようだ。いまの僕にできることは、少なくとも記憶が冷めないうちにこの地獄絵を記しておくことだけだ。
(ももすけ)

CLOSED WARD
遅ればせながら、帚木蓬生「閉鎖病棟」を読んだ。
初版が1994年4月だから、25年前の小説である。
最近映画化される話があったので、読んで見た。
調べると1999年にも映画化されていた。
20年前、息子はまだ高校1年生。神経質だったが、普通の平凡な高校生だった。
私は精神障害の知識もなく、この小説や映画の存在も知らなかった。
息子の発症以降は「精神」とか「障害」の文字がすぐ目に入ってくる。
人間は自分の知っている範囲でしか、物事をとらえられないんだとつくづく思う。
かなりの分量だったが、一気に読んでしまった。
胸が痛くなる物語なのだが、読後は暖かい感情があふれる。
登場人物一人一人に会いたくなる。
「患者」という名前で括られてしまう彼らにもそれぞれ人生がある。
当たり前のことなのに、忘れてしまっている。
安易に「当事者」って言ってしまうことが多いなと反省する。
文章にするのはなかなか難しいけれど、
「自分の場所で生き続けることなんだ」と思う。
今回の映画は時代設定を2006年から2008年に変更している。
当時の精神科治療を取り巻く環境が現代と差があまりないからか、
それとも全く同じということなのか。
25年前と変わっていないかもしれない。
映画を見てみたい。できれば1999年版も。
(Julyon)

「カーラ~スー」?「君ガワ ヨうわー」
あアー、遂に息子は頭が狂ってしまったのかも・・・!ベランダでパンツ一丁で調子はずれの大声で歌いだす息子を見て、親はがく然とした。
息子は、「不眠」の大波に襲われると、抗精神薬のリスパダール限度量一杯の12mgと、睡眠導入剤2種類、更にトンプク(眠薬)まで飲んでも、ほとんど眠れなくなる。本人はフラフラになり、次第に不安と緊張が高まり、いつ発狂の瞬間がやってきてもおかしくない状況に至る。こうなるとスグ入院しかない。
息子は11年間で10回の入退院(一回平均6ヶ月)を繰り返してきた。入院の度に増薬と、生活能力の低下が確実に進み、本人の絶望感のみが強まっていくことが明白だ。そこで両親は、「11回目は、もう絶対入院させまい。余程の暴発行為でも無い限り、自宅で直してヤル!」と硬い決心をした。
11回目の不眠の大波が襲って来た。こんどは、夫婦交代の24時間フルアテンドをして、本人が「不安」に襲われないよう、片時もそばを離れず、夜通し付きっ切りで話し相手を務めた。本人が喋りたくないときは、黙って横に座り、夜が白々と明ける日が何日も続いた。
2ヶ月ほど経ったある日、なんの前触れもなく、突然、真っ昼間から大鼾をかき始めた!そのまま一気に18時間ほど昏睡を続けたあとで、ビックリしたような顔で目覚めた。はじめキョトンとしていたが、スグに自分が熟睡できたことに気付いて、満面の笑顔で、「やったア!」と一言嬉しそうに叫び、タバコを一服うまそうに吸った。
遂に11回目の入院をせずに不眠のトンネルを抜けたのだ!二ヶ月ぶりに正気に戻った息子は、ベランダのハンモックに横になり、嬉しそうに空を見上げ、いつまでもハンモックを揺らし続けた。
その後、転地治療を目指し、家族3人で西伊豆へ移住し、ミカン園を始め18年を過ごした。また最近では、両親の高齢化に伴い、千葉の九十九里浜の医療・リハビリ総合施設に移り住んでいるが、薬も当時から1/4まで減り、無入院記録も18年を超えて、多くの笑顔が戻り、至極平和な暮らしを取り戻すことができるようになった。
(呉(ごう)愼次郎・衣久子
心のリハビリ 楽楽農園主・精神保健福祉士)
shinjirogo@hotmail.com / URL: 楽楽農園 検索
弊園発行の小冊子『心の病は愛で癒す』(日本語版・英語版)のダウンロードはこちら(無料)

「笑顔のおすそ分け」
今年最後の定例会。
楽しく笑顔で終わりたいなと、最後にみんなに聞いてみた。
「今年、一番嬉しかったことは何?」
「何もないよ」「あるわけない」
こんな声の中から、「そう言えば…」
「子供に留守番を任せて、夫婦で田舎に帰りました。数日一人で乗り切れました」
「よく見る野良猫が姿を消して、死んじゃったと思っていたら、ひょっこり現れた」
「当事者の調子が悪くて、ずっと家族会に出られなかったけれど、
気持ちよく送り出してくれるようになった」
そして、バスを乗り継いで息子さんの病院に付き添っているAさん。
「最近息子の受診に付き合うのが楽しいの。
帰りに近くの公園によって食事をし、散策するんだけれど。
以前はきれいな花を見ると、自分は苦しいのに、生き生きしている花が憎らしいって。
それが春くらいから綺麗なバラだねって言うのよ。
二人で散策するのが楽しくてね」
思わずみんなの顔がほころぶ。
他の人にもそれぞれ嬉しいことがちゃんとあった。
最後は私の番。
「37年続いていた小説が秋に完結しました。
新刊が出るたびに一緒に読んでいた実家の母が生きているうちに完結したと大喜びです」
爆笑。明るい年忘れになった。
来年もきっと嬉しいことがいっぱいあるね。
(Julyon)

「生きてたナア・・・」
僕は大学1年生の1年間をイギリスで過ごした。そう書くと聞こえはいいけど、実は英語もダメ、勉強もダメの、まったくの劣等生だった。
それでも、あの1年間は、大人としての今の僕を形づくるうえで、大切な1年だった。
イギリスでは、学生のほとんどは自宅から通わず、寄宿舎に入って生活する。早く一人前の生活がしたくて、首都ロンドンから、わざわざ僕の在学していた地方大学に進学してきた人もいた。
寄宿舎に寝泊まりできるのは1年生のうちだけ。上級生になると、仲間を見つけて不動産屋に出向き、自分たちでシェアする戸建てを見つけなくてはならない。そのための下準備として、1年生だけには特別に寄宿舎が用意されているのだ。
寄宿舎といっても堅苦しいものではない。建物全体が、8~10人ごとの「フラット」と呼ばれるブロックに分けられ、このフラットの住人が共同生活をする。台所やテレビのあるコモン・ルームは共有だが、各自にシャワー・トイレ付きの個室がある。
僕が住んでいた「フラット1」は、イギリス全国から集まった新1年生の集まりだったが、お互いにほんわかしたゆるい“つながり”があり、とても居心地が良かった。
朝は眠い目をこすりながら8時15分に起床。他の住人はみな寝坊をしていて、1限目に出るために朝食の準備をするのは決まって僕だけだ。「君はさすがジャパニーズだなあ」と言われたこともある。
テレビを見ながら食パン4枚とオレンジジュースを胃に流し込み、レクチャーへ。バスもあったが、僕は20分ほど歩いて行くのが常だった。
レクチャーでは、教授の言葉を聞き漏らすまいと全身を耳にし、歯を食いしばりながら授業に集中しようとするのだが、右の耳から入って来た英語が左の耳から抜けて行ってしまう。教授がOHPに映し出した講義録をノートに写すだけで精いっぱいだ。
授業が終わるともうクタクタ。それでも夕食の材料を調達しなくてはならない。身体も頭もふらふらになりながら、安いドイツ系の缶詰・冷凍食品スーパーへ。ここでカレー缶と冷凍ハンバーグを仕入れる。次、別の格安スーパーで野菜とソーセージと米を買う。
寄宿舎に帰ると、バタンキュー。豪華な昼寝。本来なら授業の復習をしなくてはならない筈なのに、そんな余裕はどこへやら。
夕方5時。まるでカウントのかかったプロレスラーのごとく跳ね起き、台所のあるコモン・ルームへ。夕食には、マグカップ1杯の米を鍋で炊き、おかずは日によってハンバーグ→野菜炒め→カレー缶のローテーション。米が炊けるまで、人参を1本かじる。ビタミンCはバッチリだ。フラットの他の住人たちは、近くのテイクアウトピザなどを買って胡麻化していたが、僕はそういうことはしたくなかった。他人とつるむことなくやりたいように出来るのがイギリスのいいところですね・・・。
夕食が済むと、適当にテレビを見、あとは深夜までイヤホンでBBCラジオに聴き入り、放送終了の12時半を過ぎると、やっと本格的にベッドに入るのでした。
(ももすけ)
「幸せです」
義母は新しいことを覚えられない。
10年以上前にアルツハイマー型認知症の診断を受け、
私は毎月介護に田舎に帰っている。
先月、7年間入所していたグループホームから老健に移った。
デイサービスからお世話になっていた施設では、一番の古株だった。
入所当初は他の入所者とのトラブルや介護拒否があり、心配していた。
退所日にケアマネさんと話した。
「お母様を見ていると忘れることも悪いことじゃないと思います」
最近は一人の世界に入り、マイペース。
テレビ番組に笑い、機嫌よく鼻歌を歌う。
口を開くと「幸せ、幸せ」を繰り返す。
スタッフから何かしてもらうと「ありがとう」と必ず言う。
私が会いに行くとにっこり笑って迎えてくれる。
二人でコーヒーを飲んでいると「美味しい」と言って涙ぐむ。
車の助手席で「ゆらゆら揺れて、気持ええなあ」とご機嫌である。
好き嫌いがはっきりしていて、嫌な人には遠慮がなかったのに、
いつからこんなに良い人になったんだろう。
嫌なことは全部忘れてしまったのかな。
「お父さんは優しかったし、子供は二人とも出来がいいし」
「え!あんな息子でいいの?」と思わず突込みを入れたくなる。
「罰が当たるくらい幸せ」なんだそうだ。
「私は幸せです」という妄想。
こんな妄想なら大歓迎だ。
聞いているこちらまで幸せな気分になってしまう。
こういうおばあちゃんになりたいなあと思う。
認知症になっても人を幸せにできるのだ。
人間ってすごいとつくづく思う。
「私も幸せです、お母さん」
(Julyon)
「幸せになっていいんだよ」
帰省の帰り道、四国の在来線で親子連れと同じボックス席に座った。
お母さん、知的と身体の障害がある26歳の息子さん、そして年子の娘さん。
お休みで戻っていた娘さんを大阪に送って行くついでの親子旅行だそうだ。
「迷惑かけます」というお母さんに「うちの息子も障害者です。精神の」と答えた。
それをきっかけに、いろいろ話を聞くことができた。
息子が発病してから12年。
でも出産時の事故で障害を持った彼をお母さんはもう26年も介護している。
さらに一家を支えていたお父さんは昨年くも膜下出血で亡くなったと。
お父さんのいない、初めての家族旅行でみんなそれぞれ緊張した様子だった。
無事に大阪に着いて、USJに行けたかな。
兄の世話を焼き、お母さんがお喋りをするのを心配していた娘さん。
最後は作業所で空き缶つぶしをするお兄さんの動画を見せてくれた。
「あなたは、自分の人生を楽しんで幸せになっていいんだよ」
そう言ってあげたかったなあ。
人一倍気を使っていたのがちょっと心配。
それにしてもJR在来線は車椅子対応の座席が無いし、車椅子をおく場所もない。
車内販売の人が車椅子をどけてくれと言うし。
日本の福祉の貧困を目の当たりにした。
(Julyon)
ララのこと
私は、朝起きると真っ先に「ララはどうしてるかな?」と頭に浮かびます。夜、1日のすることを終えて、お風呂に入り、パジャマに着替えて、布団に入る前にも「ララはもう寝た?」と、テレビの前の夫に聞きます。夫は、テレビの方を見たまま「もう寝たみたいだよ。」と言う日もあれば、「まだ寝ないんだよ。」と言う日もあります。そう言う夫の足下には、ララが寝そべって、首を上げてハフハフ鳴いていたり、すっかり四つ脚を投げ出して寝入っていたりします。
そう、ララは我が家の飼い犬、16歳の雌のボーダーコリーです。後ろ脚は萎えてしまって立ち上がれません。目はよく見えず、耳も遠く、最近は嗅覚も衰えてきたようです。ですから、人が抱き起こしてやらなければお水さえも飲むことが出来ません。食欲だけはちっとも衰えずに今まで通りポリポリ、カリカリ、ドッグフードを食べ、デザートのキュウリだって夢中で食べますが。困ったことに、夏前ごろから夜鳴きをするようになりました。夜中に1度か2度、目を覚まして「ホイ!ホイ!」と、30分から1時間ぐらい、割と大きな声で鳴くのです。仕方なく私は起き出して庭に連れ出してみたり、お水を飲ませたり、なでなでしたり・・・。私は睡眠不足と腰痛になりながらも、24時間フルアテンドの介護を続けていました。「もう、そう永くはないのだから・・・」と、私も家族も思っていましたから。
ところが、最近、思いがけなく大きな変化が起きました。ある“老犬介護士”からのすすめで、“車椅子”と“オムツ”を導入したところ、めきめき元気になり、再び犬ライフ(?)を取り戻してきたのです。
車椅子は、オーダ-メイドです。ララの体型と体力に合わせて作ってくれるのです。U字型のフレームに4本の脚が出ていて、それぞれに車が着いています。前輪は小さく、後輪は大きく。そのフレームに渡してある3本のベルトの上に、ララの胴体を載せると・・・。はじめは、何も起きませんでした。「なんなのこれ?」と言いたげな顔で、じっと乗っかっているだけで。ところが、引いたり押したりして動かしてやること4、5日目のこと、家族が集まっている方へ向かって数歩、歩いてきたのです。その少し前、息子が手取り足取り(?)特訓していたようです。みんな大喜びで歓声を上げました。その声を聞いて、ララは嬉しくて、また数歩。とうとう、「自分は歩く動物である」ことを思い出したのでしょう。今では、車椅子に乗せてもらうのを楽しみにして、庭の芝生の上を“散歩”したり、台所でご飯の支度をしている私の様子を見に来たり、一人でお水を飲んだり・・・。かなり、自由と解放を味わっている様子です。
それからもう一つ。オムツは、私を、24時間フルアテンドの介護からずいぶん解放してくれました。騒ぐ度に庭に連れ出したり、間に合わなくて粗相をしてしまったのを、ぶつぶつ言いながら片付けなくて済むようになりました。先日は、安心して家族会に行くことも出来ました。オムツ換えは息子が上手なのです。そして昼間、車椅子のおかげで運動が出来るからでしょう、夜鳴きがずっと少なくなりました。
今でも、朝起きると「ララどうしてるかな?」に始まり、夜寝る前に「寝付かないで騒いでいないかな?」で、締めくくることに変わりは無いのですが、「ララを介護する」のではなく「ララと暮らす」幸せを感じている今日この頃です。
(ローズマリー)
日記より
2018.10.03(水)曇
最近、すっかり引きこもりになってしまいました。原因はだいたい分かっています。8月末に1週間、両親だけで旅行に行ってもらい、自宅で一人生活にチャレンジしたことがきっかけでした。
両親はいずれいなくなる。そうでなくても、今のように手取り足取り僕の“面倒”を見ることはできなくなってしまうだろう。僕はいつか、独りで暮らさなくてはならなくなる、と思うと、今からちょっとずつその準備や訓練をしておいた方が良いのではないかと、第一歩を踏み出すつもりでの一人生活でした。
僕はもともと外出が苦手なので、事前に母にスーパーで1週間分の食料をバッチリ買い込んでおいてもらい、冷蔵庫・冷凍庫をパンパンにしてもらいました。そして、庫内リストまで詳細につくってもらい、万全の準備を整えた……筈でした。
ところが、いざ一人になってみると、周り近所から「一人生活をしている」ということをそれとなく窺われているようで、初めはまるで“一人前ごっこ”をしているのを見透かされているように感じてこそばゆい程度だったのですが、それがだんだんと被害妄想に変わり、裏の若い奥さんが腹立たしいほどに元気よく携帯で電話している声、向かいの家の旦那さんが玄関から出て来て、「ゴホゴホ」と大きな声で咳をし、車のドアを「バシン」と閉めて出かけていく音などが聞こえると、それらがまるで僕の中に土足で侵入し、僕の静かな一人生活を脅かすものであるように感じられてきて、たとえ門の外1歩でも、出るのがますます怖くなってきてしまったのです。
両親が旅行から無事帰って来ても、僕の近所に対する被害妄想は続きました。9月はほとんど自宅から1歩も出られませんでした。
それでも、家の中でやることはたくさんありました。
朝、4時半に起床してまずパソコンに向かい、「じんかれんホームページ」に異常がないかどうかチェック。サーバーにアップデートの表示が出ていれば、すぐに更新ボタンを押します。
更新が無事済むと、今度は物理の“再”勉強に取り掛かります。なぜ「再勉強」なのかと言いますと、僕は大学で物理工学を専攻したのですが、病気のため数年間にわたる休学を2度も繰り返したうえ、復学しても頭がぼんやりとして働かず、自分がいま何の勉強をしているのかについての意識も朦朧としたまま、何とか35歳で卒業に漕ぎ着けたものの、大学生活は不完全燃焼に終わってしまいました。そこで、卒業から10年以上経った今、教科書を再度引っ張り出し、記憶の糸をたどりながら、物理に再挑戦しているのです。
1週間ほど前から、僕の引きこもり生活にもやっと改善が見られるようになりました。朝食の後、自宅から歩いて20分ほどのところにある町立図書館の学習室に、父と1日1時間だけ、と決めてぼちぼち通うようになったのです。すっかり体力の衰えてしまった父も、初めは渋々付き合ってくれただけでしたが、最近は「毎日これだけ歩けばいい運動になるなあ」とまんざらではないようです。
食欲の秋、読書の秋、勉学の秋、(そしてちっちゃい文字で、スポーツの秋)、皆さんも気候の変化に留意なさり、ぜひ充実した楽しい生活をお送りください。
(S.K.)
読書レビュー
『障害者のリアル×東大生のリアル』
思わず引きたくなるようなタイトルである。事実、ページをめくると、2015年度に東京大学で行われた「障害者のリアルに迫る」という一連のゼミに参加した現役東大生の有志らが、講師である障害者たちから学んだことを述べた、感想文集である。
「なあんだ。どうせエリート学生たちが、自分たちは安全な最高学府の座に着いたまま、本心では障害者たちを見下しながら、取り繕ったようなことを言っているだけでしょ」という先入観を持って本書を読み始めた読者は、冒頭から見事に裏切られる。
このゼミに参加した学生たちは、みな驚くほど謙虚だ。そして、岡部宏生さんという、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患い、僅かに動く唇と目のまばたきによってしかコミュニケーションを取ることのできない男性が登場したときも、ある学生は「私は彼に負けている。人から見て私は多くのものを持っているし、羨ましがられる人間だ。けれど、幸せだなんて思ったことはない。・・・どちらが幸せを感じられているか。間違いなく岡部さんだ。」と言い切っている。別の学生は、「私がもしALSになったらどうするだろうか。いや、どうすればいいのか。」と講師と自分の人生を重ね合わせる。そして、「自分の子どもが、もし障害を持っていたらどうしよう?」と真剣に悩む。
しかし、これらの学生たちは、しょせん“優秀な学生”の域を出ることはなく、「健常者である自分」と、「障害者である講師」という境界線を引きながら、自分と講師を位置づけているだけであるとも言える。そして、いろいろな推測や憶測を繰り返した挙句に、「何もわからない。わからないなりに「答えのない問い」に対して全力で向き合うことが、私たちにできる最大限のあがきなのかもしれない」という暫定的な結論に達する。
本当に、障害者たちはこれらの学生らの言う「答え」を持っていないのだろうか?
この問いに対する答えはしかし、本書の後半で見事に明らかにされる。後半では、自分の人生に常にコンプレックスを抱いていたという学生のみならず、「中学のころからいつも人生の分かれ道の選択肢に「生きる」と「死ぬ」が入っていた」という、不安障害と双極性障害を持つ学生、さらには、大学生活を送るうちに、「人間の生活には「昼」と「夜」がある」と考えるようになり、「「昼」には大学に通い・・・だが家に帰って家族と夕食を食べ、そして自室に戻り布団にこもると同時に「夜」が・・・足音を忍ばせて近づいてくる。・・・それは自らの「心の泥」が染み出してくるかのようだ」と自白する学生もいる。つまり本書は、「障害者と東大生」というテーマから、「障害者である東大生」というテーマに変貌する。
そんな東大生たちは、このゼミに参加し、上述の学生たちには見いだせなかった「人生に対する答え」に近いものを発見するに至る。すなわち、小山内美智子さんという脳性まひで車いすの当事者が講師として登壇した際、「彼女にはあって僕にはない何かがある。「自由」だ。・・・「自らの精神の自由」とでも言うべきだろうか」「僕の前にいた「障害者」たちは・・・こんなにも自由に生きている。・・・この人たちは、僕の何倍もの自由を生きている」「今まで自分は自分で自分の事を何も決めてこなかったのだ、と初めて気付いた」「もう一段上の、もっと頑強で丈夫な「僕らしさ」が必要みたいだ」との悟りに達するのである。
評者は、この本を精神障害者当事者にぜひともお勧めしたい。人生の先輩であるこのゼミの講師の障害者たちから、東大生らの言葉を通して、人生にとって何が最も大切かを、教えてもらうことができるはずだ。
(ぶどう社、2016年7月31日初版発行、本体1,500円+税)
(S.K.)